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クリスチャン・キャンプの情報ブログです

13 October

アウトキャンプにチャレンジ −ストレスキャンプ回想録−

        町田クリスチャンセンター教育主事 杉本玲子


 先回は卒業試験キャンプについて書きましたので、今回はホーイトンでストレスキャンプに参加した体験を書かせていただきます。
 それは一週間の冬期アウトキャンプでした。マイナス二十度以下のウイスコンシン州の厳冬の天候の下、一月七日からだったと思うのですが、十人前後が参加して雪上キャンプし、クロスカントリー、ダウンヒルスキー、雪上オリエンテーリングに登山など目いっぱいのプログラムでした。自炊に自然を利用してのトイレ、氷の上でテントを張っての宿泊というかなり過酷な条件下で、二十キロ以上の荷物をザックに背負って移動しながら、(なぜこんなキャンプに浅はかにも申し込んでしまったんだろう。自分は本当にサバイブできるのか)など、後悔の気持ちで一杯でした。回りは体育の実技として取る十八から十九歳の元気な男子がほとんどで、二十六歳の大学院生、しかも外国人など私しかいなかったのです。ハッキリいって年がいっていて体力のない女性、しかも英語も解らないとろい学生なんて、グループ全体のお荷物だったのに違いありません。体力的にも苦しかったし、もともと知り合いもなく孤独で、早く終わって欲しいとばかり願いました。大学や神学校で習ったことは何一つ役に立たないように思え、ショックでした。
 でも途中から不思議なことが起こり始めました。年齢や文化や性別、何もかも違う人たちに声をかけてもらい、受け入れてもらう喜びが、実感としてわかってきたのです。極限の状況下で、素直に声をかけて助けてもらうこと、苦手なことからも逃げないでチャレンジしてみること、祈りながら一瞬一瞬の苦しみを乗り越えていくことなどが、口先だけでなく体験としてわかったのです。ボーナスとしては、あんなに素敵な景色を見たことがなかったし、「時よ止まれ、おまえは美しい」と息をのむこともしばしばでした。

 このようにアウトキャンプは、朝昼晩上げ膳据え膳、冷暖房完備のデラックスなチャペルで御言葉の糧をたっぷりいただいて清潔なベットで休めるといったリトリート的なキャンプとは違います。もしかしたら不便な生活を強いられて苦痛に思うこともあるかもしれません。けれどもそここそが荒野のイスラエルが体験したような試練の場、成長の場、本当に神様だけを信頼して助け合って行動することを実践できる学びの場でもあるわけです。神を知らない子供にとっては神の存在がリアルにわかるでしょうし、クリスチャンホームの子供にとっても頭だけで知っていた御言葉を体験できるチャンスになるかも知れません。教会学校のちんたらムードを打ち破る突破口になる可能性もあるのです。準備が大変、乳幼児にはハードなどの限界はありますが、アウトキャンプこそキャンプの真髄といえるような気がします。
 そう私も、懲りもせずに、チャンスがあればまたアウトキャンプに参加したい、あの感動をもう一度味わいたいと願っているのです。

    (1997年11月 CMNのニュースレターに掲載されたものです。)
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12 October

キリスト教教育とキャンプ

    町田クリスチャンセンター教育主事 杉本玲子

 キャンプというと真先に思いうかべるのがホイートン大学大学院でキリスト教教育を学んでいた時のことです。クラスも順調に終了し、いよいよ卒業という時、卒業試験はキャンプ場であると聞いて私たち学生は驚きました。「キャンプ場で卒業試験?いったい何をテストされるのだろう?」と恐れ惑ったわけですが、内容は行くまで秘密でした。

 キャンプ地に着くと、学生たちは二班に分けられて、それぞれ『ホイートンまるでダメ教会』の「牧師」「青年牧師」「教育主事」などの役割が与えられました。そしてそのダメ教会をどこをどのようにして改革していったらいいのか、現在の活動を評価し、教会の理念を見直し、新しく改革計画をまとめるまで話し合いをするというシュミレーションに基づいたものでした。勿論、その話し合いの中では、二年間で学んできた全ての学びの成果を現実的に見せなければならないわけで教授方が私たちの発言を全て聞きながら、時々メモをしておられたりして、大変緊張しました。授業では色々なことをずい分たくさん学んだような気になっていましたが、実際的に身についていたことが何て少なかったのかを思い知らされたような気がしました。

 でも、そういう緊張したときだけでなく、午後は、教授の先生方と一緒に乗馬で遠乗りに行き、カヌーをこぎ、ロッククライミングを楽しみました。それもただの遊びではなく、カヌーをこぐことを通して、カヌーはみんなで力を合わせてこがないと進まないことを教えられ、ロッククライミングや乗馬でも、自然に逆らうのではなく、自然の中での活動をみんなで楽しむことを学んだのです。それに加えて、野外でキャンプをする時に必要な技術を身に付けることができました。そして夜は、暖炉を囲みながら、先生方と楽しく交わり、またビジョンを分かち合って祈りあうことができました。もちろん試験は全員合格したことはいうまでもありません。

 私はこのことを通し、日本とアメリカの教育の質が全く違うのにショックを覚えました。日本でいう教育とは、神学校教育も含めてほとんどが知識の暗記であるのに対し、アメリカでの教育は、学んだことを実際に適用し、現状の分析、統合、そして評価することまでも含み、そしてそれら全てを実際に体験を通して身に付けていくことまで組み込まれていたのです。考えてみれば、イエスが十二弟子を教育された方法がまさにこれであり、神がイスラエル民族を荒野で訓練された方法もこの実地訓練でした。このために用いられたのが野外であり、野外こそ最高の教育・訓練の場であったわけです。

 こういうわけで私は、子どもだけでなく大人にとってもキャンプが、多くのことを学び、また学んだことを実際に体験することの出来る最高のセッティングの一つであると思います。クリスチャンは皆、旅人であり寄留者であり、キャンパーであると思うのです。

 「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:13)」

    (1997年4月 CMNのニュースレターに掲載されたものです。)
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11 October

 キャンプと三種類の教育

                                 町田クリスチャンセンター教育主事 杉本玲子



 英語を学ぶのに3つの方法があるとします。?語学学校で先生から組織的に英語の文法や語彙、読解法などについて学ぶ。?アメリカのホームステイプログラムなどに参加して、実際に生活を共にし、しかもレベルに応じたきめこまやかな指導を受けながら学ぶ。?なるべくアメリカ人らしい人にあったら、積極的に話しかけるようにして学ぶ。あなただったら、どの方法を選ぶでしょうか?
1.フォーマル・エドュケーション
 ?の方法は、楽しくはないかもしれませんが、全くの初心者の場合、一度にたくさんの人を教育しなければならない場合、あるいはきちっと受験などに備える場合は最適でしょう。このように学校に代表されるような正式な教育システムを「フォーマル・エドュケーション(formal education)といいます。

2.ノンフォーマル・エドュケーション
 ?の方法は、お金や準備が大変などというマイナス面もあります。でも何よりも楽しいし、頭と体験の両面を通して学ぶので、習ったことが定着しやすく忘れられないし、英語が大好きになって一気に実力がつくかもしれません。このように学校ほど堅苦しくはないけれど、意図的に計画された教育システムをノンフォーマル・エドュケーション(non-formal education)といいます。

3.インフォーマル・エドュケーション
 ?の方法は、いつもアメリカ人と会えるわけでもないし、確実に英語の実力が身につくかどうかは保障できなきというマイナス面があります。でも気軽にいつども好きな時に学べて、費用も準備もほとんどいらないというメリットもあるでしょう。こういう無計画の計画というべき教育システムをインフォーマル・エドュケーション(informal education)といいます。

 さて、私だったら他の条件が満たされたと仮定したとするならきっと?の方法を選ぶだろうと思います。何よりも、チャレンジングだし、楽しそうで、しかも実力がつくというところが気に入っている理由です。
 そこでいよいよ本題に入って、子供たちに(勿論、大人にも)聖書の真理を頭だけでなく体験を通して教えたいとした場合、どんな方法がベストなのでしょうか。?に当たるのが教会学校で、最もオーソドックスですがやや体験面で弱く、つまらないという欠点があるでしょう。一方?のように、毎日の生活の中で聖書の真理を学ぶ方法もありますが、あまり確実ともいえないのは前述のとおりです。
 そう考えてみると最も確実で最もチャレンジングで、最もエキサイティングな方法といえば、やはり?の方法でしょう。このように、ノンフォーマル・エドュケーションの代表的な存在であるキャンプは、キリスト教教育においてなかなか他には追随できないような効果と感動をもたらすことのできる媒介であると思うのです。
 キャンプを通して、今まで教会に来たことのなかった子供が教会学校に続けて来るようになります。お話しを聞くだけだった子どもが主を受け入れるようになり、周りにやってもらうばかり子どもが奉仕を始めるようになります。主のために一生をおささげしたいと決心する子どもだって与えられるかもしれません。確かに準備は決して楽ではないし、スタッフも大勢必要だし、そんなにしょっちゅうキャンプばかりできないのですが、それでもキャンプは教会における教育活動、そして様々なキリスト教教育の活動の中のハイライトといえるのではないでしょうか。

    (1998年5月 CMNのニュースレターNo.3に掲載されたものです。)
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10 October

キャンプの社会学(The Sociology of It All)


      Bob Kobielush 訳:鈴木敦子

 クリスチャンキャンプは、毎年多くの人々が人生を大きく変えるような決断をするというユニークな場である。私たちはそのことを事実として終わらせずに、「なぜ」そうであるのかを明らかにすべきだと思う。もちろん、それなりの理由をいくつか並べることはできる。例えばキャンプという場の物質的、霊的、心理的な面だ。しかしその前に、社会学的な面が大いに影響していることを忘れてはならない。社会学は人の行動に関するもので、人々が何を信じ、何に価値を感じ、どんな人間関係を持っているかといったことに表され、見出される事柄を扱う。確かにキャンプという場では、このようなことが理解されていなければならない。これらの事と照らし合わせて、いくつかの原則を考えてみましょう。

 クリスチャンキャンプにおいては「一つの社会的現実が、少なくとも同等の重要性を持って、もう一つの現実にとって変わる」
 第一の現実とは、様々な人や多様な期待に囲まれた毎日の生活である。第二の現実とは、つまりはクリスチャンキャンプで、集まる人やその期待といったものはある程度共通したものといえる。この第二の現実はいわば「山上での経験」がなされる所で、作り出された社会的な場としていつかは終わるものであり、現実の環境ではない。しかし、第二の現実の中では、人々に必要なオアシスや、練習の場が与えられ、キャンパーが人生の基本的な理解、あるいは更に深い理解に達する助けとなる。そしてそれは当然、毎日の生活という第一の現実に影響を与えていくのである。
 私たちの生活する現実世界では、人が受け入れられるかどうかは、適切な行動をするかどうかで決まる。第二の現実では、その人がただ単にキャンプに参加しているだけで、唯一かけがいのない個人として受け入れられるのである。適切な行動をするかどうかという規則は最小限に抑えられ、「ありのままのあなた自身」が大切にされる。こうした変化だけでも、休息や楽しさを与え、新しい機会に対して心を開かせてくれる。人が休息したり、リラックスしたり、自己を発見するといったようなことは、神が七日目を造られたように、人間の存在にとっては、ごく基本的なものなのである。

 「生活のすべてを同じように体験できる」
 自分の家庭以外で、キャンプのような場ほど、生活の中で起こりうる全てのことが当たり前に行なわれる所はない。キャンパーは共に食事をし、眠り、遊び、交わり、風呂に入り、祈り、礼拝する。長い間教育者たちは、学習には多種多様な経験をすることが必要であると言ってきた。キャンプではある程度制約された環境の中で、生活の多様な面が人との関わりにおいて実演されるのだが、それがいわば実験室となる。そして「一緒に生活する」ということが、良い思い出を作るだけでなく、日常生活に応用できるレッスンを与えてくれることになるのである。

 「外からの良い影響を受ける」
 このように集中した場においては、キャンパーには観察したり、参加したり、調べたりする機会がある。この参加者が互いに交わったり、スタッフと話したり、思い巡らしたりする時に、互いの行動の変革を及ぼす可能性が大きくなる。否定的、不適切な先入観、偏見は脇に置かれ、こうした肯定的な影響が人に及び、個人の生活に浸透していくのである。

 「内にあるものを外に表現する」
 自分の考えや確信を他の人に表現しない、ということがあってはならない。単純で、暖かく、常に変わらないキャンプの環境を通して安全用のネットが作られ、それによって自分の言いたいことを言う事が許されるだけでなく、促されるのである。その中で、人は開放感を覚え、日常生活で「言ったこと」をどう行なっていくかを学ぶのである。大切なのは、「現実の世界」で「確信した事をどう生き抜くか」なのだが、キャンプでは、言葉や考えを行動に移すことを試すこともできるのである。

 「頭が心に結び付けられる」
 言うまでもなく、頭は学問的知識の象徴であり、心は情熱や感情の象徴である。もしどちらかを人生において有効なものにしようとするならば、両方を持っていなければならない。それらはバラバラに独立したものではなく、一つに結び合わされて私たちの内に取り入れなければならない。例えば、知恵と力は知識を応用した結果であって、ただ単に「知識を」所有しているだけでは何も起こらない。 
 知識は、キャンプを経験する中で人々の行動を観察し、実行してみることによって、個人の中で統合され、取り入れられる。ピリピ4章9節でパウロはこう言っている。「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなた方とともにいてくださいます。」
 ヨハネ18章で主を否んだペテロと、使徒2章でペンテコステの日に立ち上がって説教をしたペテロはどう違っていただろうか。知識が統合され、内に取り入れられたのではないだろうか?頭と心が結びつけられたわけである。キャンプでの経験は、信仰を統合し、内に取り入れ、成長していくのに確かに役立つのだ。
人は
・読んだことの10%
・聞いたことの20%
・見たことの30%
・見て聞いたことの50%
・言ったことの70%
・行動しながら言ったことの90%
を覚えているといわれている。まさにクリスチャンキャンプという社会的な場は「行動しながら言う」環境である。本当の行動の変革はここから始まる。

"The Sociology of It All" by Bob Kobielush  
Journal of Christian Camping  January/February 1997より
(1998年5月 CMNのニュースレターNo.3に掲載されたものです。)
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08:01:44 - ccijapan - No comments - TrackBacks

05 June

国際キリスト教キャンプ連盟

「キャンプマネジメントの基礎」という本には、国際キリスト教キャンプ連盟という訳になっている。
CCI/Japanは、その組織の中にある。アメリカではナショナルコンベンションが年一回行なわれ、地域でもキャンプカンファレンスがある。そこは、色々な情報交換の場であり交わりの場である。キャンプの仲間が2000人ぐらい集まる。楽しいコンベンションである。
日本ではCCI/Japanセミナーが開かれ、温泉ミーティングになったり、キッチンのメニューの交換、プログラムの情報交換が行なわれている。
今年は信州バイブルキャンプで行なわれる。お楽しみに!
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